これまでギャリーやまほんでは工芸家の作品を中心に紹介してき ましたが、本展では初めてとなる写真展を開催致します。 昨年、辻徹氏の写真集「刻」-が出版されました。1980 年代~2015 年までの膨大な作品の中から刻(とき)というテーマで一冊にまと められました。本展では厳選され制作された作品集から展示を致し ます。辻徹の写真は鑑賞者を緩やかに引き込んでいく魅力がありま す。風景や植物、私たちが見慣れた被写体ではありますが、じっく り眺めていくと潮の満ち干きのように言葉にならない感覚が浮かび 上がり、やがて消えていきます。曖昧で言葉にならない感覚をはっ きりと心に留めておくことは難しいものです。しかしその向こうに は深く広い世界があることも私たちは知っています。美術史家・ 土田真紀氏は辻徹の展覧会に触れ、「もののあわれ」という本の の体系として氏の作品を評しています。 波や霧が一時として同じところに留まることはありません。海辺に 傾く棒もまたいづれは朽ちゆくでしょう。辻氏の作品は西洋の偉大 なの理想でもある歴史的価値や確固とした永続性のあるものでは なく、自然が胎動し、沈降する即今(いま)を表現しています。一 見すると見落としてしまいそうな確かでないもの、そこには「はかなさ」というがあるように思えます。本展ではどうぞ歩幅を緩め、耳を澄ませて作品と対 話して頂きたいと思います。 山本忠臣

彼らはいまここに現れてこようとしているのか、あるいはいまここ から消えていこうとしているのか。辻徹の写真を見ているとそのよ うな問いが浮かんでくる。そこでは白馬もくらげも小屋も草花も、 常の時空に確かに位置を占めてはいない。静かに現れて消えて行 くまでのほんのひととき、そのどこでもない場所で偶然辻と出会い、 彼が持ち歩くひときわ透明なのレンズの前に気まぐれに立ち 止まっただけなのではないか。  もちろんどんなのレンズも等しく透明であるから、ひとき わ透明なのはレンズというより辻の眼なのだろう。その眼のあり様 は、人間の眼というより、岩田慶治(文化人類学者)が語る道元の 鏡のようである。その鏡は「裏表とも曇りのない透明なもの」で「そ の上であらゆる存在をあるきものにあらしめ」る(岩田慶治『道 元との対話』)。 -略- 難しいのは人間の眼がそのような鏡にな りきることである。ありとあらゆることに執着する人間の眼が「曇 りのない透明なもの」になることは不可能に近い。私は辻徹その人 についてはわずかな会話の記と、今回の展覧会に合わせて出版さ れたタログに記されたプロィール以上のものを知らないので、 断言はできないが、ひょっとすると辻はその不可能に近い眼を持っ た人なのかもしれないと思う。 ではその眼は「心無い」のかといえば、決してそのようには思えない。 含羞とともに隠された眼の奥の奥でむしろ誰よりも深い情が動いて いて、それが隠しきれないものとして我々を捕らえるのである。 -略 土田真紀 引用 「芸術批評誌 REAR no36」